夢想家の日曜日

化粧した男達に胸を鷲づかみにされてしまった

世界は轟洋介の夢をみる――鬼邪高における〈キング〉、そして〈テッペン〉の所在

轟洋介という美しい男がいる。私はずっと彼の夢を見ている。白昼夢のように曖昧な境界を取る自我の中でぼんやりと考えている。
彼のまわりの空気はどうしてあれほど清冽で、張り詰めているのだろう。
その空気をかたち取るものが何であれ、薄氷のような鋭さと、脆さがそこにある。

 

 

轟はどこから来たのか 轟は何者か 轟はどこへ行くのか


 本稿は『HiGH&LOW THE WORST』、とくに轟洋介と村山良樹という2人の〈キング〉をめぐる覚書である。
 おそらく、本稿を読んでいただいている方は「ハイロー」と総称される『HiGH&LOW』シリーズ――SWORD地区に生きる熱き男たちが血と汗にまみれながら拳を交えるLDH謹製総合エンターテイメント作品群――はご存知のことだろう。ゆえに設定・あらすじなどの詳細は省くが、ひとまずハイローにおける轟洋介の位置付けについておさらいしておこう。彼は当初、SWORDのOを担う集団・鬼邪高校――定時制と全日制の2部からなる――の全日制に転校生としてやってきた。以下、『HiGH&LOW THE WORST』パンフレットの「轟一派」の項より引用する。

轟はルックスこそ優等生風だが、実は極限まで鍛え抜かれた肉体の持ち主で、全日における事実上ナンバー1の実力者だ。定時の番長・村山に挑むものの、わずかに及ばず敗退。クールすぎる性格から人の上にも立てず、結果として全日の均衡を崩す原因を作った。かつて拳を交えた芝マン・辻のふたりとは絆で結ばれ、常に行動を共にする*1

 なんて無駄のない人物紹介なのだろう(本日のお気持ちパート)。ここまでである程度前提知識は共有できたと思うので、早速本論に移ろう。
 なお、ここからの文章は以下の作品についてのネタバレを含むので、注意してほしい。
・『HiGH&LOW 〜THE STORY OF S.W.O.R.D.〜』
・『HiGH&LOW THE MOVIE』
・『HiGH&LOW THE WORST EPISODE.0』
・『HiGH&LOW THE WORST』
・『仮面ライダージオウ』テレビ本編
・『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』
・『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』

 
「kingとking ぶつかり合う」先に待つのはなにか――常盤ソウゴとしての轟洋介


 「kingとking ぶつかり合う 痛みよりも 愛が勝る」――「HIGHER GROUND」のリリックである。このリリックに象徴されるように、ハイローシリーズ、ひいては『HiGH&LOW THE WORST』が〈キング〉と〈継承〉をめぐる物語であることに異論はないかと思われる。この2つの概念を精緻化するため、私は異なる世界の王について語りたい。『仮面ライダージオウ』の主人公、常盤ソウゴという〈キング〉についてだ。
 まずは、『仮面ライダージオウ』という物語について簡単に説明する。王様を目指す普通の高校生であったはずの主人公・常盤ソウゴは、50年後の未来――2068年において最低最悪の魔王・オーマジオウとして君臨していた。その未来を変えるため、2068年からやってきたのが明光院ゲイツ仮面ライダーゲイツ、そしてツクヨミである。しかし、そこにオーマジオウを「我が魔王」と呼び従う謎の預言者・ウォズが介入する。未来の出来事を知る彼の助けにより、常盤ソウゴは仮面ライダージオウへと変身を遂げ、オーマジオウへの覇道を駆け上がるのである。
 この説明でおわかりいただけただろうか?『仮面ライダージオウ』を全く知らない方に納得いただけるのかどうか、正直自信がない。東映特撮YouTubeチャンネルで第1話第2話が無料で観られるので、興味があれば是非観てほしい(観なくても本稿を読むにあたっては問題ない)。

 それでは、常盤ソウゴという〈キング〉と轟洋介の間にどのような関係があるのか。この2人の物語を比較しながら紐解いていこう。
 最も大きな共通点として言えるのは、ともに〈たったひとりのキングダム〉を持つということだ。常盤ソウゴは、「王様になる」という小さい頃からの夢を公言してはばからず、その浮世離れした言動ゆえか、真の友と呼べる存在はいなかった。しかし、ゲイツツクヨミが未来から到来し、ソウゴが魔王にならないか監視していくなかで、彼らの間に友情が育まれる(ゲイツがソウゴのことを「俺の友達だ」と言う第28話は涙なしには観られない)。
 轟洋介はどうか。不良に虐められた経験を持つ彼は、自らを鍛え上げることで優位に立とうとした。「形だけのダセェ不良」を忌み嫌う彼が鬼邪高にたどり着き、全日のアタマであった辻と芝マンに戦いを挑むのは当然の帰結といえる。辻と芝マンは轟に撃破されたにもかかわらず、轟vs村山の戦いを見守り、敗北した轟に肩を貸す。轟と「ふたりとは絆で結ばれ、常に行動を共にする」――轟一派の誕生である。
 「王様になる」という夢、不良たちの優位に立つ快感を希求する欲動――これらは自己完結的なものである。王への道は独りで歩むにはあまりにも不確かなものであり、「不良に勝つ」という野望自体は過去の自分の呪いを解く過程にほかならない。このような〈たったひとりのキングダム〉に玉座と王冠を用意するのは、つねに外部からやってきたストレンジャーである。すなわち、常盤ソウゴの場合はゲイツツクヨミ、ウォズという未来人であり、轟洋介の場合は辻、芝マンというかつての敵であるのだ。
 『仮面ライダージオウ』は、紛れもなく〈キング〉という存在をめぐる物語である。それと同時に、〈継承〉をめぐる物語でもある。平成仮面ライダーシリーズ20作品記念作である――そして「平成仮面ライダー」としては最後の作品である――この番組では、過去作に登場したライダーたちが「レジェンド」として客演しているのだ。ソウゴやゲイツは、レジェンドたちの力を「ライドウォッチ」と呼ばれる変身ガジェットとして継承する。ライドウォッチを託した側のレジェンドたちは、それに伴いライダーとしての力を失う(物語が進むにしたがってこの設定は曖昧になっていったが…)。言いかえれば、ジオウという存在自体がレジェンドに取って代わるのである。
 加えて、『仮面ライダージオウ』の「本当の最終回」と題された『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』では、さらなる転回が起こる。主人公・常盤ソウゴは「常盤SOUGO」なる者の替え玉であり、ソウゴがあれほどまでに渇望した王座は偽りのものだと発覚するのだ。自分がレジェンドたちにやってきたことは〈継承〉ではなく簒奪だったのではと思い悩むソウゴに、レジェンドのひとり・詩島剛(なんと稲葉友!)はこう告げる。

「俺がウォッチを渡したのは、お前が王様だからじゃない。お前だからだ!」

 詩島剛の言葉で自我を回復したソウゴはSOUGOを撃破。物語は空前絶後のP.A.R.T.Y.を迎える――のだが、それは別の話。ひとまず措いて、『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』の5ヶ月後に封切られた『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』のラストシーンについても説明を加えなければなるまい。『仮面ライダージオウ』のTV本編が完結し、新番組『仮面ライダーゼロワン』の放映が開始された後に生まれたこの作品は、「去り行くライダー」である仮面ライダージオウと「歩み始めるライダー」である仮面ライダーゼロワンの「奇跡の出逢い」を描くものだった。そのラストシーンで、ジオウはゼロワンにタイマンを仕掛ける(このシーンは本当にタイマンとしか言いようがない。『HiGH&LOW THE WORST』で言えばラストの花岡楓士雄vs上田佐智雄とよく似た構図だ)。ソウゴは何を思い、一見唐突にも見えるタイマンを仕掛けたのか。『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』のパンフレットより、常盤ソウゴ役・奥野壮のインタビューを引用しよう。

僕の解釈ですけど、本気でゼロワンと戦ったわけじゃないと思うんです。むしろ、次の時代を託すべき存在として、ゼロワン=或人が相応しいのかどうか、試したんじゃないかな。そして、ジオウと戦ったことによってゼロワンがまたひとつ成長したはずです。素直じゃないやり方だけど、あれがソウゴなりの「バトンタッチ」のやり方なんですよね。勝負の決着がどうなったか、なんていうのはあまり意味がないんですよ*2

 平成最後の仮面ライダーであるジオウから、令和最初の仮面ライダーであるゼロワンへの継承――メタ構造としてはそうだ。しかし、これは〈その年を象徴するライダー〉という〈アタマ〉の継承でもある。常盤ソウゴという存在は、〈継承される〉立場から〈継承する〉立場へと転向しているのである*3
 ここまで、あまりにも『仮面ライダージオウ』の話をしすぎた。申し訳ない。先を急ごう。常盤ソウゴと同様に、轟洋介もまた〈継承される〉立場から〈継承する〉立場へと転向している。村山とのタイマンに敗北するも、〈定時のアタマと五分にやりあった〉という事実そのものが轟を〈全日のテッペン〉たらしめる。詩島剛が常盤ソウゴという人間自身にライドウォッチを託したように、村山良樹は轟洋介という男それ自身――〈キング〉としての轟ではなく――を自分と比肩しうる者として位置付け、その重みは轟洋介個人に対して刻まれる。轟と村山の間で交わされるデコピンの重みは継承の重みと同一であり、だからこそ轟洋介という男が背負う十字架の重みは果てがない。『HiGH&LOW THE WORST』のラストシーン、佐智雄とのタイマンに敗北した楓士雄に轟がデコピンすると見せかけ手を差し伸べる一連の流れるようなシークエンス――デコピン〈しない〉ことこそが轟洋介の見つけた〈継承する〉術であり、おそらくはあの瞬間が轟洋介が真の王座に手をかける起点にして村山良樹から継承された十字架の呪縛から解放された着地点なのだ。

 
轟洋介の背負う十字架――鬼邪高における〈キング〉、そして〈テッペン〉の所在


 オタクのこじつけ話はこれくらいにして、そろそろハイローの話に集中しよう。ハイローにおいて、〈いちばん〉を意味する言葉はひとつではない。アタマ、テッペン、キング――本稿ではこれら3つを再定義し、鬼邪高における〈キング〉、そして〈テッペン〉の所在について考える。なお、本稿における〈アタマ〉、〈テッペン〉、〈キング〉はそれぞれ後述の通り私が定義付けたものであり、「このキャラはここでアタマと言っているから云々」というようにキャラクターの言動の意味合いを規定するものではない。
 それでは、早速〈アタマ〉、〈テッペン〉、〈キング〉の再定義を行おう。私がここで定義するのは以下の式だ。

〈アタマ〉=〈キング〉+〈テッペン〉

 これはどういうことか。轟と村山の出会いから最初のタイマンまでが描かれる『HiGH&LOW 〜THE STORY OF S.W.O.R.D.〜』シーズン2・Episode7-8において、「轟、そのうちオメーにもわかるよ」としたのは「テメーが変わんなきゃ、どうやら世界も変わんねえみてえだわ」ということであり、同時に「俺が見たかった景色は一人で見るもんじゃねえ、仲間と見るもんだった」ということでもあった。加えて、『HiGH&LOW THE WORST EPISODE.0』から『HiGH&LOW THE WORST』にかけて執拗なまでに描かれているのが、「拳が強えーだけじゃダメ」ということである。まとめれば、自己/仲間/拳の三拍子が必要とされているのだ。これを上の式に代入したものがこれだ。

〈アタマ(自己)〉=〈キング(仲間)〉+〈テッペン(拳)〉

 常盤ソウゴと轟洋介の比較でもみたとおり、〈キング〉の座を用意するのは常に他者である。ゆえに〈キング〉は仲間の存在に相当し、〈神輿を担がれる能力〉を意味する。拳にあたる〈テッペン〉は〈(実力行使による)場の統制力〉、すなわち〈場の頂点に立てる腕力〉を意味する。これら両方が満たされることによって立ち現れるのが〈アタマ〉――〈世界を変える力を持つ自己〉だ。
 加えて、〈キング〉と〈テッペン〉の性質の違いについても考えてみよう。〈キング〉はその王座を支える人間がいる限り絶対的なものである。ハイロー文法において、〈神輿を担ぐ〉動機づけとなるのは〈熱いハートと少しの自己開示〉であることに異論はないだろう。〈人間らしい熱い魂〉を持つことこそが〈キング〉の条件なのである。対して、〈テッペン〉は限定された場の中でしか機能しない相対的なものである――村山良樹がコブラに敗北したように。しかしながら、鬼邪高のような限定された場において〈テッペン〉は紛れもなく(場の中における)強さのヒエラルキーの頂点にいる。卓越化のできない強さは〈テッペン〉とは言えないのだ。この点において、外部から見れば相対的な尺度のはずの〈テッペン〉が、その内部から見れば下界との隔絶度合を表す尺度となるという逆説が生じる。〈テッペン〉は、いわば〈クローズドサークルにおける神〉なのである。人間としての〈キング〉、神としての〈テッペン〉。これらを兼ね備えた〈アタマ〉は、〈半神半人の英雄〉なのである。
 この図式で考えれば、轟が〈アタマ〉になれないのは自明だろう。轟の〈神輿を担ぐ〉のは辻と芝マンのみ。誰が見ても〈キング〉の素質には欠ける。また、轟一派のたまり場は放送室である。高校時代に放送部だった筆者の経験から言わせていただくが、放送室はその防音性ゆえに下界の喧騒からは隔絶される。そのくせ、校内放送という手段を独占することで下界への一方通行的なコミュニケーションは可能である。〈半神半人の英雄〉=〈アタマ〉になるためには、あまりにも神の側に寄り過ぎてしまったのである。ゆえに『HiGH&LOW THE WORST』において「Ain’t Afraid To Die」を背に歩いてくる轟の姿は畏怖すべき存在としてまなざされる。圧倒的な暴力はもはや人間離れした美を宿すのだ。
 ここで、上の図式において轟洋介の鏡像となるキャラクターについての話をしよう。高城司である。〈キング〉:×、〈テッペン〉:◎の轟に対し、司は〈キング〉:◯、〈テッペン〉:×といえる(通信簿のような書き方もどうかと思うが)。『HiGH&LOW THE WORST EPISODE.0』において、楓士雄の不在という呪縛から脱し、ジャム男たちの友情に報いるため――「司一派」という〈神輿を担がれる覚悟〉を手に入れるため、司は楓士雄とのタイマンに挑む。
 司と〈アタマ〉の資質をめぐることがらにおいて重要なのが村山との問答であり、そこで村山は「ボスとリーダーの違いって知ってる?」、「アタマはね、リーダーじゃなきゃなんねえんだよ」と説く。脚本・平沼紀久の言葉を借りれば、これは「支配するのではなく受け入れるリーダー像」*4についての問答である。言い換えれば、〈ボス〉=「支配」であり、〈リーダー〉=「受け入れる」ことだといえる。しかし、私はここで発想の転換を試みたい。すなわち、〈ボス〉=〈夢を見せる存在〉、〈リーダー〉=〈共に夢を見る存在〉という図式である。
 まずは〈リーダー〉について検討しよう。鬼邪高における最も重要な〈リーダー〉は紛れもなく村山良樹である。『HiGH&LOW 〜THE STORY OF S.W.O.R.D.〜』シーズン2・Episode7-8の回想シーンにおいて、小学生の村山は細い枝を持ち、それをフェンスに引っ掛けながら歩く姿で表象される。細い枝は寄って立つ杖の頼りなさ=何をやっても凡庸だったことの比喩であり、その枝でかすり傷をつけることさえできないフェンスは、そのまま自分と他者の分断としてとらえることができよう。やがて、喧嘩しか取り柄のなかった少年は、鬼邪高で拳100発の荒業に立ち向かうこととなる。それは天に〈与えられなかった〉男の子が拳ひとつで100段の階段を駆け上がる過程であり、拳と拳による非言語的コミュニケーションを果たし〈神輿を担がれる〉に足る〈キング〉の称号を得ると同時に〈テッペン〉という神性を得る過程でもある。半神半人の〈英雄〉へとメタモルフォーゼすることで、村山良樹という〈アタマ〉が誕生する。単なる不良の寄せ集めだった鬼邪高が村山のもとにまとまることで「SWORDの”O”」へと変貌し、SWORD地区をめぐる陰謀に立ち向かっていくさまは、村山良樹という個人と鬼邪高定時という集団が同時に成長していくさまと等価であり、まさに〈共に夢を見る〉さまにほかならない。
 そして、村山良樹に次いで現れた〈リーダー〉が花岡楓士雄である。群雄割拠状態の全日に「ナイスタイミングのカムバック」を果たした楓士雄は、絶望団地出身という人脈や屈託のない性格によって多くの人を巻き込み、牙斗螺から幼馴染を奪還することに成功する。各自思い当たるシーンを心に浮かべていただきたいのだが、楓士雄はとんでもない人たらしである。どのくらいかというと轟がたらし込まれてしまう(後述)くらいである。他人をたらしこみ、自分のペースに巻き込むことにおいて、花岡楓士雄はとんでもない資質を持っている。当然、〈共に夢を見る〉資質に不足はない。まさに新時代の〈リーダー〉である。
 翻って、〈ボス〉について検討してみよう。登場願うのは、もちろん轟洋介である。転校早々辻と芝マンに勝利した轟は、「定時は全日なんて眼中にない」という事実上の敗北宣言に対し、「じゃあ、その腐った眼を潰してやる」と言い放つ。轟のこの言葉が、辻と芝マンにとってのパラダイムシフトであったことは想像に難くない。これを〈夢を見せる〉と言わずになんというのか。轟一派を取り巻く全日の生徒たちからしても、轟は〈全日でも定時と比肩しうる〉という夢を見せてくれる存在ではあるが生徒たち自身はその夢の当事者となることはできない――轟一派は神の位置から全日を睥睨する立場なのだから。全日の、まだ子供である生徒たちが目指すのは轟のいる〈テッペン〉であり、そこにたどり着けなければ大人たちがひしめき合う定時など夢のまた夢なのである。それでは、ほんとうに〈アタマ〉は「リーダーじゃなきゃなんねえ」のか?我々はその答えを、もうすでに知っている。

 
轟洋介という名の見果てぬ夢


 いつの時代も、若人に夢を見るのは年長者の特権である。轟洋介と村山良樹も、その関係性のただ中にいる。別の表現をすれば、それは「啐啄」といえるのかもしれない。「啐啄」とは、「デジタル大辞泉」によればこのような意味合いをもつ言葉だ(なんといらすとやにイラストがあった。こちらから飛べます)。

《「啐」はひなが卵の殻を破って出ようとして鳴く声、「啄」は母鳥が殻をつつき割る音》
禅宗で、導く師家(しけ)と修行者との呼吸がぴたりと合うこと。
2 またとない好機。
「利家も内々かく思ひ寄りし事なれば、―に同じ」〈太閤記・四〉*5

 轟――ひいては轟一派は、放送室という名の殻の中にいる。コミュニケーション不全などという無粋な言葉を使う気はないが、少なくとも圧倒的に自己開示が不足している。彼らが同胞のために八木高に行ったことを一体誰が知っているというのか?〈キング〉になるためには、〈熱いハートと少しの自己開示〉が必要である。「感情NG、情熱OK」*6では足りないのだ。だからこそ、村山は外からその殻をコツコツ、コツコツと叩く。『HiGH&LOW THE WORST EPISODE.0』で「今のお前、つまんねーんだもん」と突き放すように告げ、聞き分けの悪い子供をあやすかのように「轟ちゃん、ちゃんと、周り、見ようよ」と諭す(轟からすればとんでもない煽りに思えただろうが)。
 ここでひとつ注意してほしいことが、『HiGH&LOW 〜THE STORY OF S.W.O.R.D.〜』シーズン2・Episode8において、村山が轟を過去の自分にオーバーラップさせていたことだ。「轟、そのうちオメーにもわかるよ」と語られたように、村山は轟を〈アタマ〉に比肩しうるものとして位置付けている。すなわち、村山の中で轟は予見的に〈キング〉の要素を持つものなのだ。『HiGH&LOW THE WORST EPISODE.0』における全日ステークスの一連の流れを見る限りでも、村山が轟にかけていた期待は明白である。
 したがって、村山に轟をまるまる否定する意図は(おそらく)ないだろう。加えて、轟も単なる閉じた人間ではない。轟の問題は〈適応〉の問題でもある。〈仲間と熱き魂を交わす〉というハイロー文法のないところでは、〈アタマ〉=〈キング〉+〈テッペン〉の図式が成立する保証はない。実力主義の場では、(〈キング〉になれなかったとしても)轟が〈アタマ〉になりうる可能性もあるからだ。しかし、轟は鬼邪高に来、村山良樹への敗北という手痛い一撃を食らってしまった。村山に執着する轟からは、どこか焦燥感めいたものを感じる。「自分を倒したこの男に勝つことでしか自分の呪いは解消されない」という思いに取り憑かれた轟は、同時に村山のいる鬼邪高という磁場に取り憑かれてもいる。鬼邪高から離れられないからこそ、轟にとって(鬼邪高という)世界を変えることは難く、自分を変える方が(じつは)容易いのである。
 だが、外から叩くだけでは、轟のあまりに強固な自意識の殻は割れない。「何せ轟はプライドとナルシシズムが入り組んだヤヤコシイ男」なのだから。殻を破ろうとする内なる意思こそ、最終的な決め手となる。その意思を招く〈気づき〉が、花岡楓士雄であった。『HiGH&LOW THE WORST』パンフレットより、轟洋介役・前田公輝のインタビューを引用しよう。

まさに村山が言う「お前にはないもん、あいつは持ってるかもな」ですよね。その一言があって、ずっと村山に執着していた轟のベクトルが楓士雄に向かう。で、すべてに直球な楓士雄と接していると、今まで頭で考えていたことがバカらしくなったんじゃないかと思うんですね。本来は簡単なことなんですけど、何せ轟はプライドとナルシシズムが入り組んだヤヤコシイ男でもあるので(笑)。そこに風穴を開けてくれたのが村山の助言であり、楓士雄の存在だったんだと思います*7

 村山良樹と花岡楓士雄――このふたつのピースが揃ったとき、ようやく啐啄は実を結び、轟は〈キング〉と〈リーダー〉にひとつ近づき、責務は果たしたとばかりに村山は鬼邪高を去る。轟と村山のタイマンは、結局村山の勝ち逃げで終わる。ふたりの追いかけっこは永遠に終わらない。もしくは「ここまで上がってこいよ」と手招きする身振りか。
 先述のように〈ボス〉=〈夢を見せる存在〉とすれば、轟洋介はなんらかの夢を見せている。村山と楓士雄によって〈リーダー〉=〈共に夢を見る存在〉へと近づいたにせよ、私は(そしておそらく我々は)まだ〈ボス〉が見せた夢から覚めないでいる。ゆえに、〈世界は轟洋介の夢をみる〉。その夢は〈全日のアタマという未完の王座を希求する夢〉、〈アタマになる轟洋介の姿を見る夢〉、〈轟洋介の言う「行くぞテメェら」を聞く夢〉――なんとでも言えるだろう。ともかく、私は轟洋介こそが〈キング〉であると信じて疑っていない。〈ボス〉であろうとも〈リーダー〉であろうとも私が轟洋介に魅入ってしまったことは事実だし、だからこそ私にとっての〈キング〉であり、〈アタマ〉を継承する資格を持つ男なのである。神輿の担ぎ手が誰もいなくとも、私はその担ぎ手であり続けるし、あり続けたい。〈テッペン〉と〈キング〉を兼ね備えた轟洋介が真の〈全日のアタマ〉となり、世界を不可逆的に作り変えてしまう光景――「いつか」来るかもしれない成就の瞬間を待ちながら、私はテクストを読み解き続ける。常盤ソウゴが初めて仮面ライダージオウに変身した瞬間、ウォズ――ソウゴがオーマジオウになるまでの歴史書『逢魔降臨歴』を持つ預言者である――はこう言った、「祝え!」。ウォズにとって常盤ソウゴが魔王になるのは規定事項であり、ゆえに初変身は覇道への記念すべき第一歩なのである。私(もしくは我々)にとっても轟洋介が〈全日のアタマ〉になるのは規定事項であり、ゆえに『HiGH&LOW THE WORST』という物語――轟洋介が自我を獲得するプロセス――は覇道への記念すべき第一歩である。だから私もこう言おう、「祝え!」。『HiGH&LOW THE WORST』後、鬼邪高にいた彼らがどこへ向かうのかはわからない。ただ、鬼邪高の校舎に舞う紙吹雪は鬼邪高というネバーランドへの祝福であり、新たな旅立ちへの言祝ぎでもあればいいな、と思う。今日もまた、醒めない夢の中から、電子の海を介して私は祈りを送信し続ける。

 

 

 

 

*1:『HiGH&LOW THE WORST』パンフレット、松竹株式会社 事業推進部、2019。

*2:仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』パンフレット、東映 事業推進部、2019。

*3:仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』を仮面ライダーゼロワン/飛電或人の目線から見れば、ゼロワンという「新時代の1号」が、他でもない彼自身の「夢に向かって飛」ぶ過程を描いたものといえる。ゆえに、飛電或人が〈継承される〉立場であることに疑問を呈する向きもあるだろう。ただし、この場合における〈継承〉はメタ構造としてのものである。平成ライダーの終着点としてメタ構造をふんだんに織り込まれた〈平成の擬人化〉ともいえるジオウと、『仮面ライダーゼロワン』という物語の登場人物の主人公にすぎないゼロワンの間には、メタ構造の有無という点で大きな隔たりがあり、それぞれのリアリティの所在に微妙なズレが生じているといえよう。よって、ゼロワンにおける「夢」の概念はあくまで『仮面ライダーゼロワン』という物語の内側にのみ想起されるものであり、ジオウ/ゼロワン間の〈継承〉はメタ構造として保持される。

*4:大谷隆之、2019、「平沼紀久[脚本&プロデューサー]」『キネマ旬報NEXT Vol.18』、45-6。

*5:「啐啄」『デジタル大辞泉』(2020年3月19日取得、

https://kotobank.jp/word/%E5%95%90%E5%95%84-554683)。

*6:『duet』2016年8月号、集英社、136。

*7:『HiGH&LOW THE WORST』パンフレット、松竹株式会社 事業推進部、2019。