夢想家の日曜日

化粧した男達に胸を鷲づかみにされてしまった

〈いま・ここ〉の立脚点——THE NOVEMBERS 2021 TOUR - At The Beginning -大阪公演によせて

THE NOVEMBERSのライブを観た。2019年10月に開催されたBorisとの対バン以来、約1年半ぶり2度目である。
この記事を書く段になって私もようやく気づいたのだが、コロナ禍前に最後に行ったライブハウスがその対バンだった。そして今日がコロナ禍以降最初のライブハウス、というかコロナ禍以降の「現場始め」となったのである。

 会場に向かうとき、大学時代に所属していた(そして「音楽性の違い」から院進にかこつけて辞めてしまった)軽音サークルの後輩に声をかけられて驚いた。
というのも、私からしてみれば、「UKロックからの影響」や「シューゲイザー」といった従来のTHE NOVEMBERSの代名詞は縁が遠く、まさにそれらの流れからリスナーになったであろう後輩たちがいるなんてことはすっかり失念していたからだった。

実際、THE NOVEMBERSに対して、以前の私は「みんな好きって言ってるけど私にはピンとこないなあ」などと思っていた。
そんな固定観念を蹴散らしたのが『TODAY』収録のL’Arc〜en〜Ciel「Cradle」のカバーや、思わずDIR EN GREYを連想してしまうような強烈なホイッスルボイスがみられるあの大名盤『ANGELS』、そして最新作『At The Beginning』だった。
このような経緯もあり、私は(とくに近年の)THE NOVEMBERSに対してヴィジュアル系だけどヴィジュアル系じゃないバンド」、もう少し正確に言えば「影響元はヴィジュアル系と共通しているけどヴィジュアル系ではないバンド」ぐらいに思っている(同じ枠にはPLASTICZOOMSやNEHANNが入る)。

後輩に遭遇したのち、私は1人で開演前BGM——BUCK-TICKの「ドレス」——を聴いたのだが、そのときふいに「うちのサークルの人たちとはノベンバの開演前BGMでBUCK-TICKが流れるエモさを共有できないんだよな。ノベンバの話はできるかもしれないけどその背景に見ているものがあまりにも違いすぎるし、サークルにいたころはきっと中途半端に同じ方向を向いてることが辛かったんだなあ」という気づきに至ってしまった。
この出来事自体、THE NOVEMBERSというバンド自体の立ち位置を示しているように思えてならない。どの立場から語るかによって見える景色が全く違うバンドなのだと思う。もっとも、裏を返せば音楽的な懐の広さとも言えるのだが。

 

そこで、ライブの感想にかこつけて私は私なりの語りを実践したい。
それはすなわち〈いま・ここ〉の視角からTHE NOVEMBERSをとらえることでもあり、その補助線としてヴィジュアル系や『シン・エヴァンゲリオン』に介在するリアリティを解釈することでもある。

まず、私がこのライブを観て真っ先に驚いたのは、「思ったより暴れられるじゃん」ということである。
私自身最近はLDH所属グループやヒップホップを聴くことが増え、曲の評価に「踊れる」という基準が増えた。それと同じように、今日のTHE NOVEMBERS「暴れられる」。もちろん、こんなご時世で着席ライブだったためジッと耐えるしかなかったのだが、いわゆる「暴れ曲」のときに柵前でひたすらヘドバンと折りたたみを続けたって違和感はなかっただろう。
また、バンドなのだから演者がヘッドバンギングしながらパフォーマンスするのは割とありふれた風景と言ってしまえばそれまでなのだが、演者の身体技法としてどうしてもヴィジュアル系バンド——たとえばDIR EN GREY——を連想せずにはいられなかった。「Down to Heaven」の、赤い照明に照らされた語りパートなどその最たるものだろう。
もっとも、ボーカルワーク、特にシャウトに強いリバーブがかかっていたのはヴィジュアル系との違いを感じて興味深いポイントではあったが。

加えて、今回もっとも強烈に印象付けられたのは「〈いま・ここ〉の立脚点としてのバンド像」だった。最近のTHE NOVEMBERSが、各所でエヴァンゲリオンへのオマージュを行っていることは皆さんご存知だろう。そこで、安野モヨコ『監督不行届』に収録された庵野秀明のインタビューを引用したい。このインタビューで庵野は、自身/自作のオタク性を批判的に捉えつつ、妻・安野モヨコの漫画を以下のように評している。

嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。*1

上記の発言は、『シン・エヴァンゲリオン』での渚カヲルの言葉を借りるならば、「リアリティ」と「イマジナリー」の二項対立として言い換えることができるだろう。
碇シンジの内的葛藤に焦点を当てたテレビ版ラストや『Airまごころを、君に』に対し、『シン・エヴァンゲリオン』では第三村という形で「他人」が描かれ、「リアリティ」のなかで碇シンジは立ち直っていく。『シン・エヴァンゲリオン』を通じ、庵野秀明はついに「リアリティ」と「イマジナリー」のアウフヘーベン=「現実に対処して他人の中で生きていくための」エヴァンゲリオンを達成した、そう私は感じている。

今回のライブは、まさに「リアリティ」と「イマジナリー」のアウフヘーベンと表現するに相応しいものであった。「われわれは〈いま・ここ〉にいる」というメッセージを明確に感じられたからである。
1曲目「Rainbow」で「きみはいつも ここがはじまりさ」という轟音のファンファーレが鳴り響き、観客は没入の世界に連れ去られる。ラストを飾る「今日も生きたね」で、我々は現実の世界に軟着陸していく。というか、むしろ順序が逆なのだ。初めから〈いま・ここ〉に立脚しているからこそ、「リアリティ」は忘却されることはない。今日を始めたわれわれが生き抜き、再び明日を始めるための音楽、それが今のTHE NOVEMBERSなのである。

*1:安野モヨコ『監督不行届』、p141。