夢想家の日曜日

化粧した男達に胸を鷲づかみにされてしまった

燃え盛る炎と私は生きる――春ねむりのライブ初参戦によせて

Flowers Loft 2nd Anniversary "OVERDOSE"

そこに鳴る・春ねむり

 

初めて親元を出て会社員になって、自我がドロドロに溶け出すような感覚を味わい始めたこの春に出会ったのが春ねむりの『春火燎原』だった。

 

会社の研修先に向かう電車でよく聴いていたのがAwich『Queendom』・宇多田ヒカル『BADモード』とこの『春火燎原』で、『Queendom』を闘争のための音楽、『BADモード』をチルのための音楽と定義するならば『春火燎原』は祈りのための音楽だった。

さらに言い換えるならば、「本来の自分、こうでありたい自分を手放さないための」音楽だった。

 

私自身の話をしよう。

大学3回生〜修士の計4年にわたって社会学を専攻していた私にとっては、従来の社会/自己のあり方に疑問を持つこと・異議を唱えることは自分が自分に対して絶えず要請している思考の形式のひとつで、そうすることが私が私を生きるための手段ですらあった。

 

しかしながら、「世間」は――クソ家父長制がのさばりフェミニストがサンドバッグ扱いされるこの日本は――ご存知の通りまったく私に寄り添わなかった。

同期との雑談ではなんの注釈もなく「彼氏いる?」と聞かれたり、実際の仕事内容を模した研修では当たり前のようにパワハラまがいの指導をされたり、そんなところにいては私は私の姿を保てないような気がしたのである。

 

さすがに今となっては「そういう場所にいる」という前提ができてしまったので、数ヶ月前のように常に自我が揺さぶられるようなことはない。

最近は私自身ずっとやりたかった髪型であるマンバンにするなどして、自分が自分であるための抵抗を実践する余裕も生まれてきた。

それでも「そういう場所にいる」こと自体への不条理さや怒りを手放す必要はないことは明白だし、春ねむりの叫びはそのことを絶えず私に思い出させてくれる。

 

そんな日々を経て今日のライブに至ったのだから、終始泣きながら笑っていても仕方なかったのではないだろうか。 

ヘヴィメタルもヒップホップも経由した私にとってはその洗練されたミクスチャー感がどこまでも心地よいのに、そのうえ春ねむりのステージングには生きていくということにまつわる喜怒哀楽の全てが存在している。

過去現在未来にわたって私たちが生存している、そのこと自体を言祝ぎ祈る剥き出しの生がそこにあった。

終演後、空っぽのステージに流れる「生きる」に合わせて手拍子をしながらマスクの下で声を出さないように「How beautiful life is!」と歌ったあの瞬間、私もまた剥き出しの私自身を感じていた。

 

私の――あるいは顔も知らない誰かの――名前と生の輪郭を奪おうとするすべてに対して抗いながら生存するための音楽。それが春ねむりの音楽であり、私は私であるままで今日この時間に立ち会えたことを幸福に思う。