夢想家の日曜日

化粧した男達に胸を鷲づかみにされてしまった

生きている音楽で、生きていく音楽——Beyond THE NOVEMBERS - 20221110 -

生きている音楽で、生きていく音楽だった。

 

私がTHE NOVEMBERSというバンドに対して感じている面白さのひとつが、こんなに不穏でこんなに妖しい曲たちであるにもかかわらず、包まれるような穏やかさがあって、生きていくことに対する誠実さのようなものが感じられることにある。

 

前にこのバンドを観たときの感想にもある通り、私は完全にヴィジュアル系の文脈としてTHE NOVEMBERSを聴いている。

たとえば、メンバー自身影響を公言しているDIR EN GREYのライブにおいて、「THE FINAL」のサビで観客が"So I can't live"と叫ぶこと(この光景が再び観られるのはいつになるのか)も、生という奔流のひとつの発露であるように思われる。

底の底まで沈むことで光を得る、"So I can't live"が声に出されることで"So I can live"に転化していくのも、ひとつの「ヴィジュアル系らしさ」である。

ただTHE NOVEMBERSがそれとは一線を画している——これは「優劣がある」という意味合いでは決してなく、「別の場所に立っている」ということである——ように思われるのは、人間の生が持つ具体性、卑近な表現を使うならば「生活感」に対してある意味照れがないところだ(たとえば、「Close To Me」の「チャイニーズ・レストランで 美味しいものを食べたら すぐに優しくなれて なんとなく虚しい」という歌詞を思い出してほしい)。

おそらく、そういう率直さのようなものが今の私のモードに合っているし、男性アーティストがその種の、いわばカッコ付きの「男らしさ」から脱した感情を表明していること自体に安心感があるのだと思う(そしてそのある意味「男らしくない」態度こそ、ヴィジュアル系がその誕生とともに宿していた精神性であるといえよう)。

 

なんとなく私の中には小林祐介という人の言葉へ対しての信頼みたいなものがあって、それは他のものでいうならば『違国日記』に対する信頼とよく似た場所にあるように思う。

今日のライブを観て、それが何に対しての信頼であるかというと、生きることであったり愛することであったり、対話することについて、それらのままならなさそのものをすら内包した誠実さへ対するものなのだと気付かされた。

 

私はかねてより「ノベンバには『生活』があるから好き」と言い続けている。

この春からひとり暮らしを始めたのだが、生活という営み自体、因数分解すれば自分と対話して自分を愛していくこと/他者と対話して他者を愛していくこと、であると実感している。

たとえば自分のためだけに美味しいものを作ったり、疲れて布団から出られない土曜日には全ての家事を放り出したり。

重要なのは今自分が何を成したかではなく、私が私を愛せていて、私の生活の中で私自身を生かし続けていることである。

 

だからこそ、今日職場からLIQUIDROOMに直行したこの状況で聴く「こわれる」には突き動かされるものがあった。

資本主義のもと、我々労働者は絶え間ない成長という回し車へと引きずり込まれている。その非人間性が我々の時間を、感情を、その他「人間らしさ」を剥ぎ取っている。

たしかにTHE NOVEMBERSの音楽は生きることへの寿ぎであるわけだが、あの暴力的とさえ形容可能な音の中で叫ばれる「感性が剥がれている 生活だけが残る」には、『痙攣』第1号掲載の「THE NOVEMBERSと変革の最低条件」で伏見瞬が指摘したように、「『流動的で不安定な社会システムに取り込まれた個人が実感する悲痛さや痛み』というコノテーションが含まれているはず」であり、「現在の状況に対する明確な抵抗」の文脈を有する(p87)。

この抵抗の方法こそ、先に述べた愛であり、対話であり、THE NOVEMBERSが表現する「生きること」そのものではないか。生きることはそれ自体が抵抗の手段であり、そのふたつはウロボロスのように果てなく繋がっているのである。

 

愛・対話・誠実さ・抵抗——真善美とのみ表現するには到底足りない、生きていくことに対するすべての感情を内包し、「いい未来」へと進んでいく。

それを約束するかのようなライブだった。