夢想家の日曜日

化粧した男達に胸を鷲づかみにされてしまった

「平成」という名のいびつな、美しき祝祭––『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』感想

 

P.A.R.T.Y. ~ユニバース・フェスティバル~

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今日からちょうど1年前。2018年7月26日、何をしていたか覚えているだろうか?
その日に発表された作品こそ、『仮面ライダージオウ』。平成仮面ライダー20周年記念作品にして、平成最後のライダーである。

Twitterでその報せを受けた私は、キービジュアルにやけに大きく写っているディケイドの姿に目が止まった。『ディケイド』、『ジオウ』、『オーズ』、『ビルド』、『龍騎』、『剣』、『555』、『カブト』…視聴、視聴、また視聴。平成ライダーを追いかける生活の幕が開いた。
Twitterでもこのブログでも散々話してきたことなので、もう今更触れることでもないだろう。『平成ジェネレーションズFOREVER』を観たときに感じたことは、今も変わらずここにある。

 

chiriterrier.hatenablog.com

 

 

思い返せば、『ジオウ』が始まってからはまさにジェットコースターの如くめまぐるしい感情の中にいた。
過去作の世界を生き、考察に悶え、レジェンド出演に笑い、東京くんだりまでイベントに赴く熱狂…まだこの渦の中にいるにもかかわらず、息がつまるような、思わず涙ぐんでしまうような愛おしさに溢れた毎日を送っていた。

その『ジオウ』が、終わる。
平成9年生まれの私を育んだ平成という時代はとうに終わった。
そう、「平成ライダー」にも幕を引かなければならない。『クウガ』〜『カブト』をリアルタイムで観ながら大きくなり、『ディケイド』『W』で再会し、『ジオウ』でまたまた共に歩むことになった平成ライダーが、ついに終わってしまう。

そんな中、「『ジオウ』真の最終回」と銘打たれた『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』が公開された。
もちろん、向かうは初日最速上映。
『ジオウ』の帰結、サプライズのレジェンド出演。どこまでも膨れ上がる期待を胸に、眠い目をこすりながら映画館にたどり着いた。

 

 

※以下、『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』本編のネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。

 

 


正直、ファーストインプレッションは困惑の方が強かった。
なのになぜか泣いている。めちゃくちゃ泣いている。終了後にメガネを見たら涙の塩分でフレームがカピカピになっていた。

映画館の座席を立ちながら、思わず叫びたくなった。
「おのれ白倉伸一郎ォォォォォォォォォォォ!!!!!!!!!!!!」

『ディケイド』ですらここまでメタに振り切った脚本はあっただろうか?
「平成」という混沌を見事に昇華し、メタとして笑い飛ばす。
「平成」の残滓は、「令和」の使者であるゼロワンに完膚なきまでに叩き潰された。

『平成ジェネレーションズFOREVER』では、フィクションの産物たる仮面ライダーが人々の記憶によって生命を吹き込まれるという過程を示した。
「常盤SOUGO」の替え玉である「常盤ソウゴ」が真の王となるべくオーマフォームに変身する姿は、フィクションが起こした現実への反逆にほかならない。

そもそも、クォーツァーが変身するバールクス、ゾンジス、パールクス自体、「平成ライダー」という集合的記憶から疎外された存在からのしっぺ返しといえるだろう。
平成という時代を「醜くないか?」と言い、時代そのものの改変を試みるクォーツァー。
そう、平成という時代は決して美しい時代ではなかった。「失われた20年」から始まり、さまざまな苦難が襲いかかった。昭和のようにそれをノスタルジーで包み、美化するにはいささか早すぎる。

しかし、その混沌とした「平成」、我々とそして平成ライダーたちがもがきながらも駆け抜けてきたその軌跡、それそのものを常盤ソウゴは肯定する。
「好きに生きた」ことそのものが「平成」という時代なのだ。

それを今回もっとも良く体現していたのがウォズだろう。
物語の水先案内人にして、メタ要素を一手に引き受ける語り手。彼の存在自体、『ジオウ』という番組の「そと」にいるのだ。
しかし、ウォズはSOUGOに「自分もまた仮面ライダーになった」と言う。「自分は仮面ライダーである」≒「〈いま・ここ〉は自分自身が生きる世界である」そう認識したのである。彼は『ジオウ』の物語の「うち」にやってきたのだ。
メタ要員としての存在を超えた自律性を獲得したウォズが逢魔降臨暦を破り捨て、「未来は予想がつかない」と高らかに宣言した。
リボルケインで刺された、または存在が消滅したにも関わらずいつのまにか帰還しているウォズ、ゲイツツクヨミ
いわばご都合主義的な帰還自体、「彼らが物語の構造として世界に必要とされているから」という証左にほかならない。
しかしそれだけではないのだ。彼らはただの構造ではない。〈いま・ここ〉に根を張った、自律性のある構造だからこそ帰還できたのだ。
人の記憶さえあれば、案外簡単に還ってこられる。この意味で、ウォズが『MOVIE大戦2010』の門矢士に思えてならない。

繰り返すが、フィクションだからこそ持てる力がある。
人の記憶に存在を依拠するからこそ、願えば叶う。思いもしない「向こう側」に辿り着くことができる。
本作でも、漫画本から、町に貼られたポスターから、タブレットの中から、予想もしないライダーたちが飛び出してきた。
平成ライダー」という紛れも無いフィクションをメタの視点から描きだす、その美しさ、強さ、希望がそこにある。
我々が忘れなければ、きっとまた会える。
令和の夏の映画に「平成」と書かれた攻撃を通すぐらいなのだから。

かくして、我々の平成は終わった。
『ジオウ』本編が最終回を迎えたとき、「平成ライダー」もまた終わりを告げる。
最後の祝砲として、これよりド派手な花火はないだろう。
さあ、令和へ。予想もつかない未来が、そこには広がっているのだから。

 

 

 

 

 


平成生まれに聞きたいんですけど仮面ノリダー分かりました???私まずこのおじさん誰?あっ木梨憲武!…ってのは分かったんだけどなんで劇場のみんなこんな笑ってるの???このノリさん何のノリさん???って感じでした