夢想家の日曜日

化粧した男達に胸を鷲づかみにされてしまった

「ふるさと」という呪いー帰る場所はどこにもあってどこにもないということ、または「東京」への郷愁

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一週間前に撮った風景。夏ですね

 

22年前、母の実家近くの病院で私は産まれた。
東京や千葉での暮らしを経て、3〜4歳ごろには母の実家で暮らした。近くに住んでいた大叔父と手を繋いで買いに行った『おともだち』や『たのしい幼稚園』は、今も自室の本棚に並んでいる。

私が幼稚園に入るとき、我々家族は奈良に引っ越した。教育熱心な母がひとり娘の将来を思いやってのことだったようだ。しかしながら、祖母や親戚にかわいがられ楽しく暮らしていた大阪を離れるのはやはり違和感があったのだろう。奈良に住み始めた当時、身の回りの風景が「にせもの」に見えたことを覚えている。
それでも、子供の適応力は恐ろしいもので、小3の頃にはちゃっかりご当地検定まで受験していた。名実ともに奈良がふるさとになったのだ。

 

それから少し経ち、中学受験でなんとか京都市のはずれにある中学にすべりこんだ私のために再び我が家は引っ越しをした。住んでいるのは奈良県のままだったが、小学校時代の友人とは地理的に引き離されてしまう。またしても、私は知らない街に住むことになったのだ。
中学〜高校時代は、私自身真面目だったことが手伝い、部活が終わるとすぐに家に帰り、家ではひたすら本を読んだり音楽を聴いたりして過ごす毎日を送っていた。学校も家も「通過点」にすぎず、「ふるさと」のような帰属意識はほとんどなかったに等しい。

 

こんな状況が変わったのは、大学入学前後のことだ。大学受験を終え、弛みに弛みきった身体をなんとかせねばいかんと人生初のダイエットを始めた。ダイエットといっても近所を数時間散歩するだけだったが、毎日続けていると15kgほど痩せることに成功した。いつしか、痩せることよりも近所を散歩することの方が目的となった。家↔︎学校の往復しか歩いてこなかった私にとって、近所の道を歩くのはささやかな楽しみだったのだ。季節に応じて顔を変える田舎道。それが、私の新たな「ふるさと」になった。

 

大学の話をしよう。私が行っていた高校は出身中学の附属だったので、中学〜高校とほとんど同じ場所だった。私の大学はそこから少し離れるが(森見登美彦氏の小説に出てくる大学といえばだいたいお分かりだろう)、同じく京都市のはずれ。私が今大学4回生なので、かれこれ10年は京都市で学生をやっている計算だ。学生が多いという地理的要因も手伝ってか、私の大学のある地域は独特な雰囲気のある喫茶店や居酒屋が多い…「そうだ」。
何を隠そう、私の標準的な一日のスケジュールは、中学〜高校時代とほとんど変わりない。京都の大学に講義を受けに行き、終わり次第奈良の自宅へ帰る。これでは、どれだけ周りに店があろうと詳しくなりようがないのだ。もちろんサークルの集まりがあったり友人と遊んだりもするが、そもそもそれ自体、精神的ひきこもりである私にとってはかなりのレアケースなのだ。
それでも、空きコマをぬって大学の近所を散策することはあった。化粧をしなくとも、着飾らなくとも呼吸ができるまち。鴨川沿いのどことなく弛緩した暖かい空気は、もはや私の一部だ。

 

先ほども書いたが、私は今大学4回生だ。大学院の入試に向けた勉強を放っぽり出してこの文章を書いている。空いた時間は極力勉強に費やす生活も、辛さが完全に勝るがそんなに悪いものでもないと思っている。学生の本分は勉強なんだし、これまで散々勉強サボってきたんだし。


このブログの過去の記事を読んでいただければ分かる通り、大学入学以降の私はヴィジュアル系バンドのライブに通う毎日を送っていた。去年からは平成ライダーにもハマり、オタクとしてはそれなりに忙しい毎日を送っているのだ。

chiriterrier.hatenablog.com 
しかし、試験勉強に追われる今となってはそんなに足繁く現場通いもできない。もともとそんなに現場数が多い方ではなかったが、そもそもバイト時間を減らして勉強しているのだから現場に費やす金がないのだ。


今や試験勉強のために家と学校を往復するだけの毎日となってしまった私をかきたてるのは、「帰りたい」という強烈な思いだった。

どこに?大阪に?違う。あの家に住んでいた祖母は去年亡くなった。そもそもあそこはもう「おばあちゃんの家」という認識だ。「帰る場所」ではない。
じゃあ奈良に?まさか。いつもの田舎道に行きたければ散歩すればいいだけの話だ。
京都に?違う。大学には週に何度も行っているのだからわざわざ「帰る」必要もない。


私が「帰りたい」のは、バスタ新宿のやたらと狭く、混み合った夜行バスの待合所。いつまで経っても正しい出口にたどり着けない新宿駅。東京駅のやたらと広い駅構内。ドブみたいな臭いがする池袋。平成ライダーのロケ地巡りで行った浮間舟渡の公園、さいたまスーパーアリーナ

ぜんぶぜんぶ、ライブやイベントのために行った場所だ。初めて東京に「遠征」してから1年も経ってないし、行った回数も10回強。日数で換算すれば2週間程度だ。
東京など、遠征のために行く場所で特に観光をするわけでもない。住むだけなら奈良で充分だし、むしろ東京など住みたくないぐらいだ。イオンモールとネット通販さえあればたいがいのものは揃うし、奈良には空を切り裂く高層ビルの圧迫感はない。度を超した通勤ラッシュに巻き込まれることもない。

月に1回程度しか行っていない東京に、住みたくもないのに、なぜ「帰りたい」のか。
私にとっての「東京」は、夜行バスを待ちながらバスタ新宿にあるファミマで買ったアイスを齧ること、消灯前の夜行バスでcali≠gariの「東京、40時29分59秒」を聴くこと、観光地価格で買えたもんじゃない中古のおもちゃを探して秋葉原を徘徊すること、平成ライダーのロケ地を探して西武新宿線の駅めぐりをすること。
アイデンティティが行き着く象徴としての「東京」だ。現在の私を形作るもの、私が愛したもの、それがあるのが「東京」なのだ。

思えば、今年に入ってよく聴いたアルバム、THE NOVEMBERSの「ANGELS」も、King Gnuの「Tokyo Rendez-Vous」も、椎名林檎の「三毒史」も、サカナクションの「834.194」も、「東京」が息づいたアルバムだった。望めば、「東京」は耳の中からやってくる。それでも私は「帰りたい」。私が望んだあのまちに。

 

大阪にも奈良にも京都にも根を張らずに生きてきた私は、社会学の用語でいうところの「マージナル・マン」なのだろうか。どこにも行けそうでどこにも行けない。
でもそれは、そんなに悪くないことではないように思う。どこにも帰属できないかわりに、どこにでも郷愁を抱ける。それこそ「東京」のように。魂が帰る場所は、どこにでも見出せるものなのだ。