夢想家の日曜日

化粧した男達に胸を鷲づかみにされてしまった

約10年ぶりに仮面ライダーを観た話 ——「仮面ライダー 平成ジェネレーションズFOREVER」によせて

これは、約10年ぶりに平成ライダーと再会した女の記録である。
映画本編や過去作のネタバレが含まれています。くれぐれもご注意ください。

 

2009年1月25日、日曜午前8時30分。

11歳、小学5年生の彼女は模試のために早起きする必要があり、支度をしていたリビングのテレビは6チャンネルを表示していた。
彼女の家はいつもそうだ。早起きした日曜日の朝に観るのは「ニチアサ」と相場が決まっていた。

 

1997年に産まれた彼女は、当たり前のようにニチアサの洗礼を受けていた。
セーラームーン」が放映されていた時期は眠い目をこすりながら6時30分に起きていたし、「かいけつゾロリ」は小学校でもブームだった。
スーパー戦隊シリーズは「タイムレンジャー」から始まり、「ガオレンジャー」や「アバレンジャー」はおもちゃも持っていた。
もちろん「おジャ魔女どれみ」も観ていたし、「明日のナージャ」のお箸は塾のお弁当箱にいつも入っていた。本棚には「ふたりはプリキュア」の映画のパンフレットが並べられていた。
仮面ライダーとて例外ではない。ソフビセット「新・栄光の10人ライダー」はずっと持っていたし、「アギト」のハンカチに至っては、ついこの間に家から発掘されてたいへん驚いたほどだ。

そんな彼女も成長するにつれてニチアサからフェードアウトしかかっていた。
仮面ライダーシリーズは「クウガ」から「カブト」までずっと観ていたにもかかわらず、いつの間にか日々の習慣から抜け落ちてしまっていた。
彼女も今となっては明確な理由を思い出せない。

 

しかし2009年1月のその日その時間、彼女は圧倒的な衝撃を受けることになる。
クウガが、アギトが、龍騎が、555が、剣が、響鬼が、カブトが、そして電王とキバが、同じ画面にいる。一堂に会している。
これまで彼女が観てきたすべてのライダーがそこにいた。一体何なんだこれは。

そう、それは「仮面ライダーディケイド」第1話。
突然現れたマゼンタ色の破壊者に魅せられ、彼女は2年のブランクを経て再びニチアサを観始めた。
「ディケイド」が半年ほどで終わってしまったのは彼女にとって予想外だったが、受験生の彼女は毎週日曜日に模試を控えていた。
ニチアサタイムは終わらない。
彼女はそのまま「W」を観始めた。
中学1年生になった夏休みの昼、高校野球の合間を縫って放映された48話を観た彼女は溢れんばかりの涙を流したという。


それでも、時間というのは確実に彼女を変えていった。
10代前半の彼女にとって、1年というのはあまりにも長すぎる期間だった。
やがて、彼女の情熱は小学6年生のときに出会ったあるアイドルに一心に注がれていった。
「オーズ」も「フォーゼ」も少し観こそすれ、ほとんど観ていないに等しかった。
彼女は、今度こそニチアサから離れてしまったのだ。

 

それから約10年が経った。
中学〜高校時代を経て、彼女は大学3回生となっていた。
ひょんなことからヴィジュアル系バンドの愛好家になった彼女は、バイトに勤しみながら月数回のペースでライブに通う生活を送っていた。いわゆるバンギャというやつだ。


2018年7月26日、その瞬間は唐突に訪れた。

 
毎年恒例、新ライダー発表。
偶然Twitterで宣材画像を見た彼女は、ある一点に目が止まった。
ディケイドがいる。
しかも、扱いが妙にデカい。

平成ライダー20周年記念作品、さらに平成最後のライダー。
平成ライダー10周年記念作品であるディケイドが何らかの重要な役割を果たす可能性は十二分にあった。
彼女は思わずTwitterでこうつぶやいた。

ディケイドとWで義務教育を終えたので新ライダーの10年前の自分が殴り込みに来た感に殺されそう

それから程なくしてAmazonプライム・ビデオに加入した彼女は、早速「ディケイド」の視聴を開始した。


結論から言おう。
めちゃくちゃハマった。いつの間にか自室にライダー関連本が増え、玩具の購入さえ視野に入れるようになった。
「ディケイド」放映当時はテレビ本編しか観ていなかったこともあり、「なんか尻切れトンボに終わった作品」というイメージが拭えず、本編のストーリーもほとんど覚えていなかった。
しかしどうだろう。予見されていた終末、そして「世界の破壊者」という自らのカルマに抗うかのように数多くの世界を「通りすがる」仮面ライダーディケイド、ひいては門矢士という男の物語に没入していく彼女がいた。
なかでも、ひときわ彼女を魅了したのが仮面ライダーディエンドこと、海東大樹だ。
朧げな記憶を辿っていくと、特定のキャラクターに入れ込むことがほとんどない彼女が唯一入れ込んだキャラクターであり、いわば「初恋のキャラ」といえる。今回「ディケイド」から観返したのも、この記憶がもとだった。(「W」は昨年のうちにたまたま半分ほど観ていたのもある)
改めて観ると、言動が気まぐれだろうと門矢士クソデカ感情マンだろうと「僕の行き先は僕が決める」「お宝のためなら命を賭ける」という美学を貫き通す姿がひときわ美しく思えた。パッと見馬鹿みたいだけど美学に殉じるキャラには弱えんだよ…


閑話休題
仮面ライダーディケイド」という物語については、また別の機会に語ることにしよう。
そんなこんなで、新番組「仮面ライダージオウ」の放映が始まった。
いわゆる「平成1期」と呼ばれるライダーについてはある程度の知識を持っていても、「平成2期」に関しては限定的な予備知識しかない。
彼女は初めて仮面ライダーを観た子どものような気持ちで、毎週の放映を心待ちにしていた。1年前になんとなくブログタイトル決めたときはまさかこんな形でタイトルの意味を回収するとは思ってなかったよ…

そして、彼女の期待は現実となった。

 
その完結編にあたる「MOVIE大戦2010」において、ディケイドというカルマから解放され、旅の中にこそある自己を獲得した男。そう、門矢士が帰ってくる。
2018年においても彼が旅を続けていることのなんと素晴らしいことか。祝え!
彼女が生まれて初めて購入した仮面ライダーのベルトは、ネオディケイドライバーになった。まさに10年越しの邂逅だ。
彼女の中で、2000〜2007年の自分、2009年の自分、そして2018年の自分がひとつの道として繋がったのである。

 


12月22日、満を持して公開された「仮面ライダー 平成ジェネレーションズFOREVER」。

公開までの間、不気味なまでに情報統制されていたこの映画。
公開初日の午前8時20分、初回上映の時間。彼女は近所の映画館に足を運んだ。


お察しの通り、今まで語られてきた「彼女」は書き手である私自身であり、その物語は私自身の物語である。

人生の走馬灯を見せられているかのような映画だった。
1年1年を彩っていたライダーたちが、入れ替わり立ち替わり戦う。
採石場での戦闘シーン、知らないはずにもかかわらず、なぜか覚えている曲が流れていた。
間違いない。「仮面ライダークウガ」主題歌、「仮面ライダークウガ!」だ。
劇伴用にアレンジされているはずなのに、ましてや18年前に観たきりの作品の主題歌なんて覚えていないはずなのに、身体が憶えている。
私が思っていたよりも深く、そうずっと深く、仮面ライダーは私の人生の中に食い込んでいたのだ。


「ディケイド」を観ていて気づいたことなのだが、私はメタフィクションネタが結構好きだ。
本来虚構のはずの物語が、私たちのいる現実に手を振ってくれる。
本来決して交わらないはずの世界たちが融合する。
虚構と現実の境があいまいになるからこそ、日常とは違った輝き方を見せる風景がある。
キャラクターが私たちと同じ世界線に生きているということ、実存しないものの実存を信じることで、絵空事を現実に落とし込もうとする営みが生まれるのである。

仮面ライダーはテレビの中の絵空事
確かにそうかもしれない。
けれど私は信じたかった。
この世界のどこかで、いやたとえこの世界でなかったとしてもどこか別の世界で、彼らは生きている。ヒーローとして存在していると。
ヒーローというのは、戦うから誰かの救いとなるのではない。存在そのものが、すでに誰かの救いとなっているのだから。


だからこそ、「平成ジェネレーションズFOREVER」はひとつの啓示となった。
「存在するかしないかということは些細なことであり、誰かの記憶に残っているということが存在証明たりうる」という、鮮やかかつ優しい結論が提示された。これ以上求めることがあるだろうか?

人生の走馬灯を見せられたばかりか、その上で21年間生きてきたことを全肯定してくるような映画だった。
観ている最中に「今まで生きてきてよかった」と思わせる映画など滅多にあるものではない。
人生の伏線回収としては最高のカタルシスだ。
私が生きている限り、彼らの存在が消えることはない。まさに人生の伴走者だ。
平成ライダーは我々の胸の中で輝き続けるのだ。平成ライダーよ、永遠なれ。